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天理教の教え

このページでは、天理教の教えを簡単に説明しています。あくまで要点だけをまとめていますので、詳しい教理説明が聞きたい方は、当教会までご連絡ください。

天理教とは

天理教は、世界中の人間が互いに立て合いたすけ合う「陽気ぐらし」の生き方を目指す教えです。

​遠い昔、親なる神である天理王命様(親神様)は​、「人間が陽気ぐらしをするのを見て神も共に楽しみたい」との思いから、私たち人間とこの世界をつくられました。​「陽気ぐらし」こそ全ての人間の生きる目的であり目標です。

自分中心の心遣いを改め、人の喜び、たすかりのために心を働かせる。​これが親神様の望まれる「陽気ぐらし」の姿で、人間として本当の幸せを感じられる生き方です。

てんりおうのみこと
おやがみさま
天理教とは

親神様

おやがみさま

私たち人間をつくられた神様の名前は、「天理王命」様と申し上げます。天理王命様は、人間すべての親なる神様でありますから、私たちは親しみを込めて「親神様」とお呼びしています。

​遠い昔、親神様は、人間が仲良く助け合って喜びいっぱいに暮らす「陽気ぐらし」をする姿を見て共に楽しみたいと思われ、この世界と人間をお創りくださいました。何もない泥海のような世界から、人間をはじめとする宇宙のありとあらゆるものを創られ、生命を与えられた「元の神様」であり、現在も、またこれから先も絶え間なくお働きくださり、お守りくださる「実の神様です」。

​親神様は、人間が元気に暮らせるように、呼吸をしたり、物を見たり食べたりといった様々な身体の働きや、太陽が照り、雨が降り、動物、植物が育つといった自然の営みをお恵み下されています。​まさに親が我が子を慈しみ育てるように、全ての人間に「子ども可愛い」という親心を持って、​お働き下されているのです。

おやがみさま
親神様

教祖

おやさま

天理教の教祖の名前は、「中山みき」様と申し上げます。この世の元初まり、親神様が人間をつくられた時に、母親の役割をつとめられた魂のお方です。私たちは教祖 中山みき様を「おやさま」と呼んでお慕いしています。

天保9年(1838年)10月26日(陰暦)、親神様は当時41歳の中山みき様を「月日のやしろ」と定められました。月日とは親神様を表す言葉で、やしろとは親神様がお鎮まりになるお社のことです。つまり、月日のやしろというのは、親神様がお鎮まりになった教祖のことです。

​教祖の心は、人間の心が一切混じることのない親神様の心そのものであり、そのお言葉も親神様のお言葉です。私たちは教祖から、親神様が私たち人間の親であるということ、そしてどのような思いで人間と世界を始められたのかを教えていただきました。この教えは、人間が知恵や悟りによって考え出したものではなく、人間の親である親神様直々の教えなのです。

​教祖は、親神様の思召やお働きを言葉や文字で分かりやすくお教え下さったばかりでなく、

50年の長きにわたってご自分の行いを通して、心一つで味わえる陽気ぐらしの手本をお示し下さいました。この道すがらを「ひながた」と申し上げます。

教祖は、明治20年陰暦正月26日、御年90歳の時に115歳と定められていた命を25年縮めてお姿を隠されました。今、教祖のお姿こそ見えませんが、永遠に元のぢば(現 奈良県天理市の天理教教会本部)に留まり、存命のままいつも私たち人間を見守り、お導き下さっています。

おやさま
教祖

ぢば・かんろだい

ふるさと

「ぢば」は、親神様が人間を創られた場所で、親神天理王命様がお鎮まり下さるところです。​

そして、人間創造の証拠としてぢばに「かんろだい」が据えられ、礼拝の目標となっています。

毎月26日には、かんろだいを囲んで、男五人、女五人の人々(つとめ人衆)によって、親神様が人間を創られた時の十全のお働きを手振りに現した「かぐらづとめ」がつとめられます。​それによって、人間を創められた時の働きが再現され、どんなたすけもすると教えられています。ぢばは、そのおつとめがつとめられる場所です。

​ぢばこそ、世界にたった一つの人類の故郷です。ですから、各地からおぢばに参拝することを「おぢばに帰る」「おぢばがえり」と言います。ぢばには、親神様・教祖がおられ、親の膝元に帰るという喜びと親しみが込められています。​それで「おかえりなさい」と迎えられるのです。

めど
はじ
ぢば・かんろだい

おつとめ

「おつとめ」は、親神様が、全ての人間をたすけたいという親心から、私達が心を揃えて親神様に祈りを捧げ、よろづたすけの御守護を頂戴する方法としてお教え下されました。

​このおつとめは、「かぐらづとめ」と「よろづよ八首」「十二下り」のてをどりから成っています。教祖自ら、おつとめの地歌、手振り、そして鳴物までお教えくだされました。

かぐらづとめは、人間創造の時のお働きを、今に再現されています。ぢば、かんろだいを囲み、かぐら面をつけて、親神様の思召である陽気ぐらしの世界へと人間世界を建て替える、よろづたすけのつとめです。道具としてかぐら面を使用するところから「かぐらづとめ」、またよろづたすけという目的から「たすけづとめ」、そして陽気ぐらしに向かって、陽気に勇んでつとめるところから「よふきづとめ」、さらに、かんろだいを囲んでつとめる場所の上から「かんろだいづとめ」とも呼ばれています。

​天理教教会本部での大祭(10月26日、1月26日)や教祖誕生祭(4月18日)、元旦祭(1月1日)、月次祭(10月、1月以外の毎月26日)でつとめられています。

そして、この理を受けて国々所々の教会でも、お鎮まり下さる親神様のお目標を通してぢばを拝し、同様におつとめ(ただし、かぐらづとめはぢばのみで、各教会では「座りづとめ」)がつとめられています。

それ以外のおつとめには、毎朝夕につとめられる「朝づとめ」「夕づとめ」、また「お願いづとめ」や教会に参拝した時に各自がつとめられるおつとめがあります。このおつとめの字歌としてお教え下さったのが「みかぐらうた」です。

おつとめ

十全の守護

じゅうぜん

親神様は、何もない泥海のような世界からこの世界と人間を創られました。この時のお働きは、今も変わることなく、この世界や体の中で続いています。そのおかげで私たちは毎日生かされています。

この親神様の広大無辺なお働きのかどめ(要点)にそれぞれ神名をつけて(十柱の神名)、分かりやすく説き分けられたのが「十全の守護」です。決して十人の神様がおられるという意味ではありません。この神名は、元初まりの人間世界創造に際して、親神様の心に溶け込んで、一手一つ(皆が心を一つに天の理にあわせていくこと)に働かれた道具衆の働きの理に授けられたものです。

​かぐらづとめにおいては、このお働きを手振りに表して、泥海世界から人間世界を創られた不思議、珍しいご守護を今に再現されています。

 

私たちの身体は、この親神様の日々のご守護により、目で物を見分け、耳で理を聞き分け、鼻でかぎ分け、口で噛み分け、手で働き、足で歩きと、思いのままに使わせていただけるのです。

とはしら
じゅうぜん
十全の守護
十全の守護

かしもの・かりもの

この身体は、親神様から人間への「かしもの」、人間の側から言えば「かりもの」と教えられます。

私たちは、食べた物が体内で消化されていくのも、寝ている間呼吸をし続けるのも、当たり前のように毎日を過ごしています。この身体をかりものと意識してはいないでしょう。けれども全身を自分で管理し、機能させているわけではありません。私たちが知らない間も親神様がお働き下さっているのです。また、高熱や腹痛で思うように動けなくなることがあるように、この身体は自分の意志でコントロールすることはできません。これがかりものであるということなのです。

けれど、唯一心は自分のものとして自由に使えるようにして下さいました。「人間というものは、身はかりもの、心一つが我がのもの。たった一つの心より、どんな理も日々出る。」(おさしづ明治22年2月14日)と教えられています。​心の使い方によって、身体や身の回りに現れてくる全ての事柄が変わってくるのです。

​親神様は、その自由に使える心で、陽気ぐらしを味わってほしいと願っておられます。陽気ぐらしの基本は、自分の身体が親神様の御守護によって生かされているという真実を知ることから始まり、「かしもの・かりもの」の教えをいつも忘れず、感謝の心をもって暮らすことです。

八つのほこり

八つのほこり

私たちは毎日いろいろな心を使いますが、その中で陽気ぐらしの妨げになる心遣いを、ほこりにたとえて教えられています。

きれいに掃除した部屋でも、知らないうちにほこりが積もります。それがいつの間にか積もり重なり、ついには掃いても拭いても取り除きにくくなります。それと同じように、人間の心にも、気付かないうちにほこりが積もります。心にほこりが積もると、やがて心は曇り濁って、親神様の思いも悟られなければ、感謝の気持ちも薄れ、十分な御守護を頂けなくなってしまいます。

​教祖は、私たちが自分の心に積もったほこりに気付き、反省する手掛かりとして、をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こうまんの八つを挙げ、絶えずほこりを払うことの大切さをお教え下さいました。

人のために心を使ったり体を使うことを惜しむ心。人に物を貸したり借りた物を返すのを惜しいと思い、イヤなことは人にさせて、自分は少しでも楽しようとする心など、全てに出し惜しみ、骨惜しみすること。
をしい
自分の必要なものは与えられているのに満足しないで、もっと欲しいと思う心。人が持っている物を見ては欲しいと思い、働かないで見返りを求めたり、自分を省みないで、むやみに欲しがること。
ほしい
理由もないのに、自分の気に入らないからと言って人を嫌ったり、相手にあやまちがあった、失礼だと言っては人を憎んだり、全てに自分のわがまま・気ままから人を憎む心。
にくい
偏った愛情を持ったり、自分さえよければ他人はどうでもよいと思う心。分け隔てをして、特別な人だけに親切にしたり、自分や我が子我が家のことばかり考えて、他人のことを思わない利己心。
かわい
自分がこうしようと考えていることを、邪魔されたと言って人を恨み、不親切だと言って人を恨むなど、自分の努力が足りないことを反省しないで相手を恨むこと。また、他人の幸せや出世をねたむ心。
うらみ
人が自分の気に入らぬことを言ったと言って腹を立て、おもしろくないからと言って、つまらないことに腹を立てる心。広く大きな心を持たず、辛抱して人を許せることのない気短な心。
はらだち
人の物を盗んででも、人の目をだましてでも、何でも自分のにしようとする心。取れるだけ取りたい、あるが上にも、いくらでも取り込もうとする心。男女の情愛に溺れる色欲の心。
よく
知らないことも知っているふりをしたり自分は人よりも偉いとうぬぼれたり、自分の意見はどんなことがあっても通すが、人の意見は聞かず、人の欠点をあばこうとしたりする思い上がった心。
こうまん

八つのほこりの他に「うそとついしょうこれきらい」と諭されました。

自分の都合の悪くならないように、行いをごまかしたり、その場を逃れるために自分の失敗を人のせいにすること。
うそ
心にもない褒め言葉で相手の機嫌を取り自分にとって有利なように物事を運ぼうとすること。
ついしょう

別席

べっせき

「別席」とは、全人類の故郷おぢばで聴かせていただく親神様のお話です。このお話では、人間が創られた目的、人間としての本当の生き方を、詳しく聴かせて下さいます。

頭で理解するだけではなく、日々の心の使い方、身の行い方の基準となるように、その思召をよく噛み締め、しっかりと心に治めることが大切です。そうすることによって、一人一人の運命を切り替えていただけるのです。

別席のお話を聴かせていただくことを「別席を運ぶ」と言い、満17歳以上なら誰でも運ぶことができます。このお話は、聞き落としや取り違いのないように、同じ理の話を9回聴きます。一席、二席と別席を運び、今までの心の使い方や行いを反省し、教えを実行するうちに、今まで喜べなかったことも喜べるようになります。気づいたことを一つ一つ実行に移していくということが肝心です。そして自分がたすかりたいという心から、親神様のお望み下さる、人にたすかってもらいたいという心に生まれ変わり、その心に尊い「おさづけの理」を授けていただけるのです。

​9回の別席を運び、おさづけの理を戴いた人を「ようぼく」と呼びます。

べっせき
別席

おさづけの理

私たちは教祖から、病気や怪我で苦しむ人に取り次いで、回復の御守護を願う「おさづけの理」を戴くことができます。このおさづけの理を戴いた人を「ようぼく」と言います。ようぼくとは、陽気ぐらし世界建設のための人材、用材という意味です。

病気で苦しんでいる人におさづけを取り次ぐことで、親神様のお働きと教祖のお導きにより、不思議な御守護をお見せ下さるのです。

 

このおさづけの理を戴くために「別席」でお話を聴かせていただきます。同じ話を9回聴かせていただき、その間に人をたすけたいという誠真実の心を培い、願い出によっておさづけの理が授けられます。おさづけは決して祈祷や呪いではありません。どうでもたすかってもらいたいと願う取り次ぐ人の誠真実と、受ける人の心定めをお受け取りになり、心次第におたすけ下さるのです。

親神様は、私たち人間を困らせ苦しめるために、怪我や病気を見せられるのではなく、これを「ふし」(人生の区切りとなる大事なところ)として、たすけてやりたい、成人させてやりたいとの親心から、お見せ下さるのです。​これまでの心遣いや行いの反省と共に、陽気ぐらしに向けて一歩でも前進する心定めが何より大切なのです。

きとう
まじな
おさづけ
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